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顕本寺(けんぽんじ)は、三重県桑名市にある日蓮宗の寺院である。山号は自栄山〔桑名市 指定文化財所在地(顕本寺), 桑名市教育委員会〕。旧本山は身延山久遠寺、莚師法縁(隆源会)。檀家には桑名藩士が多く、関連する墓が多数現存する。中でも、吉村又右衛門宣充、水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財に指定されている〔。 ==歴史== 開創については不詳だが、かつては天台宗寺院で大泉寺と称し、桑名城三ノ丸にあった。のちに当時の藩主である本多忠勝の「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業によって、現在地である萱町に移された〔。 永正6年(1509年)〔一説に文明年間(1469年 - 1486年)。〕、身延山久遠寺第12世法主である円教院日意が上洛する際に当寺に滞在して布教した。その結果、当時の住職である実成は、日意に心服して弟子となり、当寺を顕本寺と改称、日意を中興第1世、自らは日相を名乗り第2世となった。この時、塔頭大泉院をはじめとして、僧坊は19院もあった〔。 しかし、第5世日実の頃は衰退し、塔頭も大泉院ひとつだけになっていた。さらに、その頃起きた洪水によって、仏像、仏具類残らず全て流される。のちに大鳥居村(現・三重県桑名市多度町大鳥居)で仏像を得て持ち帰り、草庵を建てて祀った。この時、四日市代官であった水谷九左衛門光勝は、仏堂を再興し、日透( - 万治2年8月8日(1659年9月24日))を招聘して第14世住職とした〔。 その後、檀家であった桑名藩士の久松忠義は、吉村又右衛門宣充らの隣の土地を購入して当寺に寄付する。次いで、忠義の子である久松義重や吉村権左衛門宣秀らは堂宇を建立し、他の久松氏一族も各自宝物等を寄進した〔。 文政3年(1820年)火災で類焼するが、天保6年(1835年)には本堂が再建された。この頃の境内は、表側南北に36間余、裏側南北に25間、東西に35間余であった。塔頭大泉院には、南柳院と実成坊という2院もあったが、後に廃絶された〔。 昭和20年(1945年)7月に、太平洋戦争の空襲を受けて焼失、のちに再建されて現在に至る。当寺檀家には桑名藩士が多く、関連する墓が多数祀られ現在に至っている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「顕本寺 (桑名市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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